岡三渕の名所

殿敷

殿敷

殿敷は、作木村内にある民家の中で最も古い建物で、三上家が所有していました。現在は、三次市の所有となっています。
三上家の初代は、藤原の流れを汲むといわれる(詳細は不明)右京重勝です。石州邑智郡井戸谷村(現:飯石郡赤来町井戸谷)にある五原山城の城主であった父益勝が戦死した際に、黒河佐渡に助けられて母と共に岡三渕に逃れてきました。重勝は猪臥が岡(本郷橋上側左岸)に庵を結び、農業をしながら成長したといわれます。
猪臥が岡には重勝の墓などがあり、現在では三上家の守護神である「稲荷神社」と「大仙神社」が祀られています。この岡に、重勝の母が尼となって居住していたので「比丘尼城」とも「殿敷」とも言われています。
猪臥が岡はもともと西側の宮山に継がっていて、川は北から東へとこの岡を迂回して流れていたと言われています。大水害によって現在のように川の位置が変わったと伝えられていますが、おそらく鉄穴流しによって掘り下げられた後に水害を受けて突き崩され、川の位置が現在のように変わったものと想像されています。
現在の三上家は弘化年間において、庄屋及び割庄屋を勤めた功績により生涯苗字御免となり、今の「三上」の性を名乗ることがになったようです。また長年の間、庄屋及び割庄屋を勤めていたため、三上家には村々の状況を知る資料が多く残されています。『広島県史』、『双三郡誌』、『双三、三次史料総覧』において多くの『三上家史料』が使われています。

 

女亀山

女亀山

女亀山(めんがめやま)は、女神山とも呼ばれています。もともとは、女神山と呼ばれていましたが、後述の由来以降に女亀山となりました。出発地点によりますが、1時間ぐらいで登れます。
女亀山は、広島県と島根県の県境にある標高830.3mの玄武岩丘です。山頂部には大径木のブナが残存し、野生動植物の生息及び自生地として良好な自然環境が形成されています。
地域一帯は中国山地唯一のギフチョウ発生地(中国山地の800m以上の高地で見られるのはこの地域のみ)であると同時に、夏鳥を中心とする鳥類の繁殖及び中継渡来地として貴重な地域となっており、サンショウクイ、アオゲラ、ヤマガラ、ヨタカなどの多くの鳥類の繁殖地となっています。
また、かなり昔から「一等三角点」に指定されている山でもあります。
女亀山の由来ですが、何百年もの昔、日照りが続く年がありました。お百姓さんはたいそう困って、いけにえを出して女神山の社にお願いすることに決めました。いけにえは、庄屋のヨミさんに決まり、ヨミさんは女亀山にある池に身を投げたそうです。そうするとたちまち雨が降り始め草も稲も元気になったそうです。ヨミさんが池に身を投げて以降、いつしか金色の亀が住むようになり、そこから女亀山と呼ばれるようになったそうです。
また、女神山の由来については、昔、玉依姫(たまよりひめ)がこの山に住まわれていたという伝説からです。
女亀山には、「雨乞池」と呼ばれる池が存在し、日照りの多いとしには周囲の村々から農民が集まり、雨乞いをしたそうです。この池は、どうやら決壊したらしく、その痕跡さえわからない状況となっています。

 

雌雄石

雌雄石

雌雄石(夫婦岩)と呼ばれる巨大な自然石で、二枚の大きな岩が寄り添って立っている非常に縁起が良い岩です。
雌雄石(夫婦岩)は、2つの岩が夫婦が寄り添うように見えることから名付けられます。海面から飛び出した岩と、山中の岩に大別できます。一般的に、夫婦円満や家内安全や海上保安や大漁追福の象徴や祈願祈念の意味があります。
この岩は、単に縁起が良いだけでなく、地域の住民が子供のころから慣れ親しんだ岩であり、岡三渕地域で牛飼いが盛んだったときに市場が開かれていた形跡を残すものだといえます。只今、地域の名物として復活させていく方針です。

 

いじり岩

いじり

大きな岩で、1年に米一粒ずつ砂井谷川に近づいている。川まで落ちると大水が出ると伝えられている。

 

理教法師の墓

理教

 最近発見されました!!
「理教法師」と呼ばれる方のお墓だそうです。天明年間に建てられたものです。おそらく、岡三渕周辺において読み書きを教えていたようです。
天明以前にこの辺りにおいて寺子屋が開かれた資料はなく、興味深い歴史遺産だといえます。

 

*各内容は、『広島県史』、『双三郡誌』、『双三、三次史料総覧』、『作木村誌』、『持続可能な集落運営と生活拠点ネットワークの再構築』を参考にしております。

 

岡三渕紹介の項目
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第3回泥んこ相撲の開催が決定いたしました。
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